今日の南のおやつは、出汁とともに、おいしくなーれと願いをこめて小さく握った数個のおにぎりを、軽く油で揚げて、これまた出汁を効かせたお茶漬けの中に落とす。
大食の南は、絶対に足りないと言うので、おかかおにぎりをもう一つ用意しておく。
私も1個だけ味見と称してつまみ食い。
おいしくなーれと思いながら握ったので、われながら満足。
南は「熱っ!!」と苦労しつつも、1個をまるごとほうばりながら、
「弱い人たちのために何ができるか。何をすることができるか」
という今日あった授業のことを話をしてくれる。
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南が話したことをそのまま記すと主語と話の中心がずれまくり、飛びまくり字数は増えるも理解しがたいため、加えて彼の名誉と我が家系の名誉のため、市中にわかるよう大人の言葉でまとめてみる。
「弱者が何を指しているのかが、はっきりとわからないし、そんなことこれっぽっちも思ってもいないときに、答えを無理やりひねり出しても、それは本当のことじゃないから、助けようと思ったときになったら考える」
と南は答えたらしい。
間違わないでほしいのは、言いたいことを察しながら、かっこよくまとめたらこうなったのであって、決してこのように理路整然と南がしゃべったわけではない。
「6年生なのによくそこまで考えられたわね。そうね、それでいいんじゃないの。興味がないのだからそんなことを考えるのはやめなさい」と、はっきり言う。
「どうして?」
「だって問題の意味があなた分かってないでしょ。答えられないわよ」
「そうだよね、なんだかピンとこなかったんだよ」
ピンとこないのであれば、それでいいと思う。
いつかピンと来た時に考えればよくて、一生ピンとこないのかもしれない。
それは小学生だからとかではなくて、大人になっても同じ。
ボランティア話に無理強いは禁物だから。
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問題解決の第一条件は問題の意味をちゃんと理解することだ。
出されている算数の問題の意味がわからないのであれば、足すも引くもない。
それに、「助けたい」と簡単にいうけど、
途中で助けるのをやめたら、その人たちはどうなるかを想像してからしゃべらないといけない。
少し前に
弱者のために何かをしたい。ほら、困っている人がたくさんいらっしゃるじゃないですか、私たち何かできると思うのよね。些細なことでもいいのよと、子育てを終えた数人の女性グループの代表という人たちに抽象的で壮大な相談を受けたことがある。
「弱者」と抽象的に話している時点で、考えているようで何も考えてなくて、思いつきました感満載で、体裁だけつけてる態度によい印象が持てない。
部屋中に香る香水の匂いが私にそう思わせたのか、
直感的に、嘘っぽい。
玉結びをしていない糸で雑巾を縫っている感じ。
何を言っても有閑マダムの暇つぶしにしか聞こえない。
継続性があるようにも思えない。
☆☆☆☆☆
子どもたちの帰宅時に角に立ってあげることもできますよ、と提案してもそれはちょとと時間がーといって、受け付けない。
では、幼稚園で本を読んであげたり、老人ホームで傾聴ボランティアをしたりと、たくさんできることがありますよ、といってもそうだといって同調する気配もない。
それどころか、そんな小さなことではなくて、もっと大きくヒトを助けることがしたいのです、とくる。
そんな小さなことだと!!。
弱者を救うって言ったそばから大も小もなかろうに、と半ばいらつきながら、私の悪魔は宣戦布を進言する。
いやいやまてまて、子供たちにはソフトランディングを言い聞かせている私としては、それは安易すぎるし、私は分別のあるできた大人なのでしょ、と懸命に言い聞かせて思いとどまる。
冷静になり、無償で国会議員や県会議員や市会議員をやりますって立候補したらいいのではないですかと無理を承知で振ってみる。
当然、そんなのことできるわけないじゃないですか、あはははと一笑に付される。
でしたら、ウクライナへ行ってその格好のまま両手を広げてロシア軍の戦車の前にでも立ちますか。
一気に世界レベルですよ。
そんな危ないことはねー、ムリ無理むりですよーって、もっと安全なやつですよー、ですって。
あなたがでっかいことっていうから提案したのに。
そもそも、いろいろな香水の匂いが、私の一視同仁を溶かしていく。
建設的かつ自主的な意見はどこにもない時間の中で、私はここでいったい何をしているのだろう。
☆☆☆☆☆
最後には、あれは嫌これはできないと覚悟がないのであれば、相談することでもないし、したい対象と、したい事が具体化するまでは、じっとして動かない方がいいわよと話した。
ことさらに、とりわけ
弱い者を助けるなんて人に言う前に
そんなことを思ってはいけない
とも。
ひとりのマダムが、なぜ人を助けようと思ったらいけないのか、と不愉快&怪訝のデュエットをもってたずねられる。
いいことをしようと言ってるのにアナタ何言ってんのと、心の中でののしられているのが手に取るようにわかる。
まず、
聞こえのいいことを言うときには、
私「どうかしてるんだ」と一度疑ったほうがいい
と思うから。
さらに、私はそんなことには興味がないのでお誘いはありがたいが、お断りしたい。
と、話した。
彼女らはこいつは、アホだし、使えない!!と思ったのか、弱者に冷たいと軽蔑したのか、二度と私の前に現れることはなかった。
その話を南にしたときに、ばーばはお友だちを失くしたかなと聞くと、
それって最初から友達じゃないんでしょ、だからいいんじゃない
と乱れた魂を治めてくれた。
その後、外に遊びに行く間際に南が、
「ばーば、ただ、友達は選びなね」と言い放って走り去っていく。
お友だちの少ないばーばに対して、焦るなよという警告なのだ。
藤原定家の「明月記」ように、グチばかりこぼしていてもしょうがないので、もう少しアプローチの違う言い方もあったかなと、いくつになっても自己反省はつきないもので……、深く考えてみる。
も、自己肯定感の強靭さはにはかなわず、なかなか季節のように深まるものではない。