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ばーばと南 + Run&Music

身を引くことのできるAI~王の座の奪還はいかに

2016年、グーグル傘下のベンチャー企業が開発した「アルファGo」が韓国の囲碁チャンピオンのイ・セドル9段をあっさり破ってから7年。

その時生まれたセミの幼虫が土の中から世に出ようとしている今、

ジェイソン・アレンが絵画で、

ボリス・エルダグセンが写真のコンテストで賞を取った。

 

双方ともAIで作成した作品だった。

 

 と、南が教えてくれた。

 

「ばーばどう思う?」

と唐突に聞かれたので、心が泡立ちお化粧がはがれ落ちそうになる。

私の中の光をAIの影が覆っていく。

 

そうだ、

「その前にあなたはどう思うの?」と逆襲に転じてみる。

 

 

「オレみたいな絵がヘタな人は、自分でいろんな絵が作れるならそれはそれは楽しいと思うよ。オレはぜーったいにあんな絵は一生かけないから。AIが作ったんでもいいから作ってみたいなー。賞で困るならAI部門を作ればいいだけじゃん」
 
南の感想はシンプルだった。

 

「で、ばーばはどう思う?」

南の追求は終わらないので、こういう時私は透明になるか、何かのきれいな結晶になれればいいのにと思う。

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

クリエイティブな世界のコンテストでAIが賞を取るような時代がきたんだ。

 

知的知能がアートの領域で創造力を持つなんて。

一点突破できた理由を知りたい。

私たちは虫歯すら駆逐できていないのに。

 

賞を取ったということは当然、人間の作品を超えてきたということ。

希望と絶望と困惑が入り混じる関係者たち。

サザン・オールスターズがデビューしたての頃、評論家たちがその扱いに困ったように。

 

AIが紡ぎだした作品のクオリティは単純にすごいと思うが、是非を問う議論も当然だと思う。

工業製品へのAI技術投入には誰もがもろ手を挙げていたのに、創造の世界へのAI進出は「やるじゃん!!」では済まされないことになった。

ロミオとジュリエットのように、望まれない恋なのか。

 

 

AIはもともと物理的な利便さと、精神的な危険性をはらむまでに進化することは周知の事実だったけれども、アートが先に来るなど予想外の展開だった。

大穴も大穴、万馬券なのだ。

 

知らずに逢うのが早すぎて、知ったときにはもう遅かった。

 

でも、AIを作ったのも、それを活用したのも全ては人間の仕業。

 

 

ジェイソン・アレンの受賞作品

 

ボリス・エルダグセンの受賞作品

Pseudomnesia: The Electrician

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

クリエイティブの世界では最初に表現したいものがあって、それを絵筆やカメラや楽器などの道具を使い慎重に作品へと仕上げていく。

成果の前には技術的な習得や現場での生々しい苦労があり、その過程の葛藤を自分に向き合いながらその揺らぎを作品に編み込んでいく。

料理と似ている。

 

一方、AIは情報を放り込むと、その先は独自でこねくり回したのちの出力となる。

出てきたものが気に入らないければ情報を再入力するだけだ。

肉と玉ねぎと人参とじゃがいもを入れたら、カレーが出てきたって感じ。

えーっと、こちらとしては、肉じゃがの予想だったんだけど、うまいからいいやみたいなこと。

そこには技術の取得に至る苦労も、現場での葛藤もない。

手も汚れないし、大きな部屋も必要ない。

なによりあきらめがない。

 

クリエイター(この場合クリエイターというが正しいのかどうか、パイロットの方が適していると思うのだが)は自分と向き合う必要がない。

ただ入力すべき「情報」をいかに扱えるかが重要なスキルの一つになる。

 

 

自分と向き合うことのないAIの作品は、

揺らぎが表現されていないのかというと、そうではないと思う。

揺らぎまでを表現しているからこそ賞を取ることができるのだ。

人間が感知できないほどの完成度の高い揺らぎを、卵を割るように簡単につきつきられたことに、人はうろたえているのだろう。

 

だって、どう考えても一生懸命に熱量を注がなくても、C調な感じでアートの世界を闊歩されたら許せないのだから。

 

芸術のために耳まで切ったゴッホは、天国で時代を恨むだろう。

 

 

☆ ☆ ☆

 

世界中の国や企業は今後もAIをもっと強靭にすべく努力を惜しまない。

新しい技術は軍事戦略技術開発から市場へと渡されるので(インターネットもそう)、膨大なデータ入力が、AIのスキルを押し上げて人間を凌駕する危険性をもつのは明らかだ。

人の仕事を奪うどころの騒ぎではなくなる。

というか、人はずっと技術革新に仕事を奪われてきたのだから、その程度で今さら騒ぐことではない。

 

そうでないといまだにノロシをあげていなければならないし、チンドン屋は街を練り歩いているはずだから。

 

そのうちにAIが独自に進化し、独自の延命システムを構築し「2001年宇宙の旅」HAL9000ターミネータースカイネットのように暴走を始める可能性はないともいえないと、真面目に議論されている。

 

そこで考えるのは、ChatbotのようにAIに救われるようなことは、身もふたもない事態なのか。

AIに支配されないために子供たちは将来を見据えて今何をすべきなのか。

今後の進化はマンマシン・インターフェイスに留めておくべきなのか。

はたしてそれは考えすぎなのか。

今回の件は養殖の魚を食べることと同じではないのか。

などなど、キリがないくらいたくさんあるのよ、みたいなことを2人で話した。

 

へー、そうかー、フーンと言いながら真面目に聞いていた南に、”できるばーば”を演出できただろうかと不安になる。

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

その後、どんなAIがいいのだろうという話になる。

 

相手の様子をみて身を引くことのできるAI。

逡巡するAI。

なぐさめてくれるAI。

黙ってうんうんと話を聞いてくれて寄り添うだけのAI。

効率化しないAI。

コスパでは計れないAI。

勇気をだせる環境を作ってくれるAI。

自分で考えてごらんって導いてくれるAI。

 

ならば、かわいくてウェルカムなのにねと意見を出し合っていると、

「ばーばが好きなビートルズの曲は作らないようにAIの監視が必要だよね」と南がいった。

 

でも、すごいのはアートの世界をコンピュータに知識マップとして意味づけた技術者がすごくない?と2人でいたく感心したところだ。
 
 

わざわざ化粧をして着替えていそいそと出かけていくコストを、

ウーバーイーツの料金に変換することに納得がいかず、

それを「均質」への反抗と言い聞かせている私などが議論の場に立つには

もっともっと勉強が必要だと思い知らされる。

 

 

視覚はAIにほだされた。

聴覚も怪しい。

ただ、嗅覚と味覚だけは、人とAIの区別がつくようにしたいものだが、果たしてそれもどうなのだろうか。

 

 

AIに王の座から身を引かせるのは、

シュワちゃんでもゴジラでもなければ、うろたえるだけの大人たちではない。

 

まだリングにもあがっていない若い世代だ。