中2のときの南の発言から。
国語の点数を上げたいのだけど「作者の言いたいことは何か」みたいな問題が本能的に嫌いなのだそうだ。
理由は、
前提としてすべての作者が言いたいことを含ませて文章を書くのだろうか
という疑問があり、さらに
出題者は「ここでは何が言いたかったのですか」と面倒くさい質問を作者本人にぶつけたのだろうか、そして作者はその質問に真面目に答えたのだろうか
という疑念があるからだそうだ。
「オレなら絶対にまともには答えないけどな」
作文となると頭に隕石のかけらが落ちたかのようにのたうち回り、
学校であった出来事すら理路整然と伝えられない南が言うことではないとたしなめる。
本が書店に並んだ時点で解釈は読み手に任せると言う作者は多い。
ということは答えは一つではない。
よってその「問い」は解答を一つに絞る国語の問題としてはふさわしくないのだ。
また、読書で培われる想像力は誰かが用意した答えに向かって読み進めていては、絶対に養うことはできないという点からもそのような問題を出すべきではない。
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年齢とともに私は何もわかっていなかったんだなと思うようになった。
今や音楽を聴くたびに本を読むたびに新しい発見がある。
悲しいことに、加齢とともにカラダがいうことをきかなくなる発見もある。
それと引き換えかどうかは知らないけれど、
同じ音、同じ言葉でも若いころとは響き方が変わる。
それは情報や知識への飢えとなって私を襲う。
停滞しないと言う意味では良いことなのだろうが、その反面、上っ面の情報だけを胸に長い年月を生きてきたのだと、自分のだらしなさをしきりに反省させられることにもなる。
今なら三島由紀夫やジミ・ヘンドリックスが若くして命を失ったことを理解できるような気がする。
命を削りだすような、著作活動やギタープレイを何度も繰り返していれば短命に終わるしかない。
しかし三島もジミヘンも説得力を持ち、救いをもたらす。
そして価値を教えてくれる。
命を削った作品に表現されている気持ちや言いたいことなど、テストの時間内に数分で読み取って表わせなんて無理があるでしょ。
ドリップコーヒーの味がわかるにはそれなりの時間を要するものだ。
あれ、たとえあってるかな?
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「先生が用意した答えもあっているし、みんなの解答もそういう見方もあるねという方向で間違ってはいないと思うよ」と南に話すと「ほーらねっ」と我が意を得て笑顔がもどる。
「ジミヘンがアメリカ国家をどういうつもりで弾いたか答えなさいと聞いているようなもんだからね」
と南が言うので
「そういうことなのよ。ジミヘン聴いててよかったね」
とたいそうホメる。
ホメながら私は、孫が間違いなく正しく成長している片鱗をみて嬉しく思っている。
そして、「あなたは平凡でいいから元気なおじいさんになってねとつぶやき、私の希望は間違っていないかな」
と南に訊ねると
「そういう見方もあるねという方向で間違っていないと思うよ」とYouTubeでブルーノ・マーズを聴きながら答える。
私と元気でかつ自然体で話してくれることに、また生かしてもらったと感謝しながら、次はジミヘンの星条旗にしてねと言いながら、ソファにいる南の横に座り交互に好きな曲を聴きながら午後のひとときを過ごした。