何故、勉強をしなければならないか。
貧乏をしても、みじめだと思わず卑屈にならず心正しく生きるため。
お金もちになっても、品がないはしたないガラの悪い行動に走らないため。
でしょう。
それには、正しい教養が下敷きとなるのですから、
多彩なインプットと多くのアウトプットが必要になります。
学校はそれらを喚起し経験するにあたっての入り口としてよくできている装置だと思います。
もちろん社会で経験を経るにあたっても、学校での経験が下敷きになることで、よりいっそう濃い勉強として体験できるのです。
ですから、垂直二等分線や紫式部やフレミング君の法則や2NaHCO₃や証明問題がなにがなにやら分からなくても、一応がんばってやれるだけ勉強してみてください。
それらを習うことで、そこをきっかけに見えてくるものがあります。
国語がきっかけになる人もいれば、数学の人も英語の人もいます。
体育かもしれませんし、美術かもしれません。
ひとそれぞれでちがいます。
そして、あるときからそれはいつかわかりませんが、はやい子は小学生のときには
問題を抱えているのに、いつも周囲にニコニコして私は大丈夫と対処することがベストではないことがわかってきます。
抗議してもいいし、声を大にしてもいい、多数意見に同調しなくてもいいけれど
内にこもった感情をストレートにだしても、たとえそれが一般的に言う正義であってもなんの解決にならない事を経験していきます。
だから感情的にならないように努めようと努力をはじめます。
でも事態を紛糾させ周囲に確執や衝突や葛藤をもたらしてでも、
自分が正しいと思ったことを貫き通すことがあってもいいのだ、
ということがわかるように正しく成長するには、教養と度胸の成熟がだいぶモノを言うのです。
そんな人たちがたくさん出てくると、
リスクに対応するシステムが全て崩壊したときに取るべき手段を推し進めてくれるのでしょうが、そこを面倒くさがり想定外としてやらないのが今の日本なので困ってしまいます。
カラスを甘く見て、夜を待たず昼に羽化するセミのように。