i-class collection

ばーばと南 + Run&Music

有刺鉄線はおかーさん

南の6年生の時の会話から。

 

 

学校のプールの古くなった有刺鉄線の交換を手伝ったんだけど、なかなかたばねられないよね。

うまいこと、いうことを聞いてくれない。

指にささった人もいるよ。

 

 

塀の上で僕たちを守っていたけど、塀からおろしたとたんに攻撃してくる。

厄介なんだ。

 

 

やさしかったり厳しかったりで

「おかーさんみたいだね」って誰かが言ったら、

「ほんとだー」ってみんなで盛り上がった。

 

 

そのことは内緒ね。

 

 

幼稚園に入る子どもをどのように育てたらいいか ~ うちの子は目指すところが違うんです!!

先日、友人の友人の娘さんが(ややこしい)、友人を介して幼稚園に入る子どもの園での過ごし方を聞きたいということで相談にこられました。

 

お母さんというより、ママという呼び名の方がふさわしい、若くて綺麗でおしゃれなお母さんいや、ママでした。

 

 

「方程式のようなものはないですよ。幼稚園では子どもの好きにしたらいいですよ」と答えると、

「幼稚園ではなくて幼保園に入るんです。で、そこで悪い言葉を覚えるでしょ。それがいやなんです」

とママは顔をしかめます。

しかめた顔もまた綺麗なのです。

 

 

「悪い言葉ぐらい、生きているとそのうちに覚えますよ。小学生の低学年で悪い言葉はすべて覚えるんじゃないでしょうか。早いうちがいいかもしれませんね」

”早期に悪い言葉を覚える派”になってみます。

 

 

「英語は早いうちがいいと言いますが、悪い言葉はちょっとですね……」

「逆だと思いますよ。英語は今でなくても大丈夫ですし、小さい時に獲得した言語スキルは使わないと話せなくなりますから。まずはちゃんとした日本語を獲得した後で、どうしてもとうのであれば英語を習ってもいいと思いますよ。日本語が混乱したまま大人になった例は多いのですよ」

 

「そうなんですか。でも悪い言葉はちょっと……」

「悪い言葉こそ早く覚えて逆にみんなに教えてあげるとどうですか。この時期でないと悪い言葉の連呼はできませんからね。ち〇ち〇や、う〇こやバカたれなんて叫びながら走り回るのは今のうちですよ。特に男の子はその言葉だけで笑い転げていてみんな楽しそうですよ。それも小学校の低学年までですよ。大人になってもそんなことをやってたらそれこそどこかへ連れて行かれます」

 

 

 

この辺までは私の波長も乱れず、まじめに答えていました。

そう、この後、波長が乱れお見苦しいシーンが登場します。

 

 

 

「いやいや、せっかく丁寧に育てたわが子の過去を踏みにじられるようで嫌なんです」

「過去を踏みにじられる?。他の子が………ですか?」

 

 

私もママの真似をして眉間にしわを寄せてみるが、きっとママのように綺麗に見えてはいないでしょう。

波長が少しだけ乱れ始めます。

 

 

 

発想についていけないのは私のせいなのか。

世の中はそのように動きだしているのか。

私の勉強不足なのか。

しばし、混乱します。

 

 

幼稚園、いや幼保園のお友だちを、稲に被害を与える害虫のように見ています。

 

 

「そんなに心配だったら、幼保園なんかに行かせなくて、おうちで面倒見たらどうですか。義務教育じゃないんだし」

「だめですよ。小さい時から社会性を身につけさせないと。そして、人と比べることを経験させないと、自分が優秀であることがわからないじゃないですか」

 

 

 

私はちょっと帰りたくなった。

なんの罰ゲームなのだろう。

 

 

あっ、土曜のお昼をいただいた冷凍チャーハンと冷凍コロッケで手を抜いたからだ。

神さまがそのお返しに私を冷凍しようとしているのだ。

「もう手抜きはしませんから、ママに帰ってもらっていいでしょうか」

と神さまにお願いしてみる。

 

 

神さまは私のたっての願いをかなえてはくれるはずもなく、若い綺麗なママは決定的なことを言います。

 

 

 

 

 

「目指すところが違うんですよね!!」

 

 

あきれる。

あきれ果てる。

あっけにとられる。

言葉を失う。

絶句する。

神さまの罰を受けフリーズする。

 

 

ピーッという音とともに私の波長計の波は一直線になりました。

KO負けです。

 

 

復活の呪文を唱えたあとに、キチンと論理的に話すべきか。

「そうですよねー」ですませるべきか。

 

ダウンして悩んでいるところへ、追い打ちの言葉。

 

 

「チームのリーダーとして育てたいものですから。その効率的な育て方ってないのかしらと思ってるのです。私は家にいたいのですが、会社からどうしても働いてくれとしつこく言われて、なくなく共働きなんです。平日は忙しいもので……、どうですかね?」

 

 

ダウンしているものにパンチをふるってはいけません。

 

それでも私は根がまじめなので、”けなげに”立ち上がり話を整理してみます。

 

 

 

「話を整理するとこうですか?、将来はリーダーに育てたいという抽象的な願望があられると。それに対してご両親は忙しいので手っ取り早い方法はないかというご相談ですね」

「手っ取り早いと言うか効率的というか。抽象的ではなくて目指すはチームのリーダなんです」

 

 

 

手っ取り早いも効率的もどっちも同じようなものだし、チームのリーダーっていうのは抽象的ってことなんですよと思いながらも、これは相談のレベルではないのでもう終わりにしようと固く自分に言い聞かせて話をはじめます。

 

 

 

「育て方に効率性を持ち出す時点でどうかと思います。仮にそれがあるとしても私はその方法を知りません。私は子どもたちに時間をかけて手をかけて、あるときは突き放して育てることしかできませんでした。

それがよかったかどうかはわかりません。子育ては評価するものではないと思っているからです。

ただ、

人の悪口をささやきながら楽しく生きていく方法ならば、いくらでも話せる

のですが、生まれたときから優秀でいらっしゃる方へ、私のような一般市民がお話しすることはないと思います。私には優秀であることがなんなのかがわかりませんし、わが子やわが孫に優秀であれと思ったこともありません。ましてやチームのリーダーの育て方なんて全く考えたこともありません。

そんな私が軽率にしゃべったことで、せっかく優秀なご子息が道を間違われても困るので、今日の所はこの辺でお引き取り願えますか」

と話して、ママには不本意なままに帰ってもらいました。

 

 

 

親のお仕着せがあっても、子どもへの愛情はなく、

目指すところが違うと言う割には、チームのリーダーが最終目的では夢すらない。

 

 

 

友人に電話で結果を報告をしました。

 

「これからは、相談の表題だけでなく、ちゃんと話の中身をいったん確認してからにしてくれる」

「私に話したときは幼稚園での過ごし方を聞きたいと言うから紹介したのに、そんなことだったのね。私が叱っておくわ」

 

 

「もうそのままにしておきましょう。価値観の落差がモイネロのカーブのように激しすぎて何か言ったからといってこの差は埋まらないと思うから」

「モイネロってなに?、なにがそんなにすごいの?」

「ごめんなさい。モイネロのことはいいですので」

 

「健やかに育つ可能性はないわね」

「ほんとうに優秀なら勝手に育つものよ」

 

 

 

子どもたちは本当はみんな優秀なのです。

下ネタを言ってげらげら笑いながら走り回っていてもです。

お友だちの過去を踏みにじる子どもなんていません。

 

ただ、それは大人が自分の欲を子供にかぶせていじりすぎなければの話です。

これが子どもの成長を妨げる最大の要因です。

 

 

そして、だれかが悩んでるからと言ってなんにでも頭を突っ込んじゃダメです。

両者の価値観が伴わない事には解決しません。

意見の対立が生じるだけです。

外でいろいろ言ってもわかってくれなかった、としか言われません。

そもそもが、知らない人のグチの相手になるのも嫌です。

 

 

 

今日は疲れたので、あっ、疲れたはうちでは禁句でした。

ともあれ、夕飯は、いただいた冷凍の…………、いや、神さまちゃんと作りますよ。

 

 

食レポをするのなら ~ 明石家さんまの矜持

雨の音を聞きながら、江國香織「泣く大人」を読みました。

その本の冒頭に「贅沢なかたまり」というエッセイがあります。

レーズンバターがいかにおいしいか、いかに好きかについて書いてあります。

 

 

 

一節を紹介すると

 

こんな幸福なバターは、たぶん私の体内で、骨を艶やかに輝かせる働きをするだろう、と、考えたりする。

いつか私が死んだら、きっと火葬場の人が骨を見るなり驚くだろう。丈夫でつやつやしているはずだから。

「贅沢なかただったんですね」火葬場の人は、そんなふうに言うかもしれない。

幸福な食べ物というのは、たぶん、そういうものなのだ。

 

 

パーフェクトな食レポではないですか。

 

食レポをするひとたちは、このような文章からヒントをもらって、独自の言い回しを考える努力をして欲しいものだと思います。

 

 

☆ ☆ ☆

 

誰もかれもが「めちゃくちゃおいしい!!」とコメントするのが食レポになってしまいました。

 

出てくる人でてくる人、ほんとうに誰もかれもが。

何を食べてもそう言います。

肉を食べれば「肉汁があふれる」、麺を食べれば「スープが麺に絡んで」、そして「めちゃくちゃおいしい」と言うのです。

 

 

何も伝わってきません。

というか、何を伝えたいのでしょう。

そんなの素人の私でもできます。

それが食レポと思っているのであれば、プロ失格です。

 

 

何も勉強しないままにテレビに出ているんだと残念に思います。

それならば、コメントしないほうがましです。

 

人と同じことを言うまいと、プライドをかけて必死に勉強しないのでしょうか。

タレントなら次も使ってもらいたいと思わないのでしょうか。

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

明石家さんまは、落語(ハレ)の舞台を降りて、日常(ケ)を笑いにかえ続けて今の地位を築きました。

ただチャラチャラするのが得意でそれがおもしろかったわけではありません。

そんな思いつきで芸人は務まりません。

 

 

当然ですが、聞けば聞くほどに笑いに対する姿勢がしっかりできているのです。

 

明石家さんまは元々が落語家だったので、古典落語チャップリンキートンの喜劇映画を下敷きにして笑いの基礎をしっかり固め、それを「ひょうきん族」で広げていき存在感をだしていきました。

 

 

明石家さんまは、お笑い界で上り詰めた今でも、袴の畳み方だけはどんな弟子にも負けないとい自負があるそうです。

 

 

これが興味のわく話なので、雑誌「SWITCH」からのインタビューを紹介します。

 

 

噺家さんも袴は正月くらいしか穿かなかったんです。でもうちの師匠は日常の舞台も穿いてらっしゃったんで、それを毎回畳まなきゃいけないんです。正月は舞台で口上なんかがあるから、師匠連中全員紋付き袴で舞台にザーッと並ぶ。僕はてっきり袴の畳み方は他の師匠の弟子もみんな知ってると思っていたら、僕しかできなかったんです。そのときは他の師匠方々の分も全部僕が畳むんです。全員分やらなあかんから難儀でした。うちの師匠が帰っても結局僕は楽屋に残って全員分やりました。今でもその畳み方忘れてへん。”本結び”も誰もできなかった。僕は今でも正月の袴姿は本結びをやってるんですよ。誰も気付いていないんですけど。十字に対する正礼装の結びです。

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

弟子の頃から意識がしっかりしています。

若手の頃から地に足がついているからこそ、正攻法の笑いが提供できるのでしょう。

 

 

その反面、笑いに関しては自分は才能があると思って疑わず、師匠にも臆せずモノを言っていたそうです。

さんまの師匠であった笑福亭松之助は心が広くそれを許します。

 

 

それでいて、自信過剰な自由奔放な弟子だったかといえばそうではなく、自分への自信と信頼を深めるためにも、松之助師匠の言うことはすべて素直に聞く耳を持っていましたし、それを行動に移しました。

 

 

さんまの弟子の頃の努力と真摯さは他を圧倒するほどに実を着けます。

 

 

ある程度の成功をおさめても、天狗になることはなく視聴者への敬意をもちつつ、かといって大衆に卑下して合わせるような芸になり下がることはありませんでした。

 

こんな笑いもあるよと惜しげもなく引き出しを披露しながら、見ているものをグイグイ引っ張ってきたのです。

 

 

「めちゃくちゃおいしい」の人たちは、自分自身と見ている人たちへの敬意を欠きながら、自分のことしか考えていないということに気づかないままに、コメントが下品になるのです。

 

自分のことしか考えていないのは、勉強していないからです。

普段から勉強癖がついていないので、何を勉強しなければならないかがわかっていません。だから、自分のことしか考えられないのかもしれません。

 

 

プロが勉強しないままに表舞台に立つのは見ているものに対して失礼です。

セリフを覚えず舞台に立つのと同じです。

 

それを甘やかしている周囲もどうかと思うのですが。

 

 

 

明石家さんまは、お笑いの伝統を大事にし、加えてアメリカの笑いを研究し、一見笑いに関係のないようなことでも誰にも負けない努力をしなければならないと自分に強いてきました。

 

その上で、笑いに対しての自分なりの解釈を築きあげ時代とともに提供されたら、それは無双になりますわね。

 

 

彼は今でももっともっと、おもしろくなろうとしているのです。

そのためには野球でいうキャッチボールをおろそかにしなかった、おろそかにしようとも思わない真摯さがあることに、私は心を動かされます。

 

 

明石家さんまのインタビューに、感心させられることや気づかされる話はあれど、「笑える話」はひとつもありませんでした。

 

 

 

ひまわりの種ほどの感謝と、単3電池ほどの信念

自分が理解したり

同意したり

賛同したり

そうであってほしい

と願っていることが

 

 

「正しい」と思いこみ

 

 

それ以外は「間違っている」

と判断していないだろうか。

 

 

そして何事も「正しい」か「正しくない」かに

分けて物事を考えていないだろうか。

 

 

 

といつも自分に言い聞かせるようにしています。

 

 

 

自分を語るのをやめなければそれはできません。

 

饒舌なことばを捨てて静かに耳を傾けたいものです。

 

 

 

立場が違えば

すがりついている「正しさ」は簡単にひっくり返ります。

 

 

戦争や争いごとがなくならないはずです。

 

 

「正しさ」を求めたり、すがったり、振り回したりするのではなく

それぞれの「生き方」の差異であると考えるようにするといいのではないか。

 

 

 

社会人になった孫たちとよく話す内容の一つがこのことです。

 

 

なるべくそうあるようにしている。

できるだけ思いだしている。

少しはできるようになったかな。

 

 

孫たちは意識してこの課題に取り組んでいるようです。

「他人をコントロールしようとするから難しい」

と自信をもって話すようにもなりました。

 

 

 

 

 

ひまわりの種ほどの感謝と、

単3電池ほどの信念があれば

それはできるようになると思います。

 

 

孫たちには「私もまだまだ全然よ、こいうのは歳の問題ではないから」

と言い訳をしています。

 

 

私の感謝と信念はまだ針子(メダカの赤ちゃん)に与えるエサ程度なので、

この春に少し大きくしたいと思っています。

 

 

RUN & MUSIC ~ Until You Come Back to Me / Aretha Franklin ('74)

ナイキの白い帽子をかぶって、ガーミンを左腕に巻き

ナイキのランニングシューズを履き

サングラスをかけ、JBLのイヤフォンを耳に装着する。

 

玄関を一歩出て走り出そうとするがすぐに踵を返す。

冬の間はレギンスに守られて私の足は安泰だった。

春になって虫たちが出てくると同時に私の膝から下もむき出しになる。

 

春になり走る前の工程が一つ増えたのだった。

保湿クリームを塗らなければならない。

どうしても塗らなければならないのだ。

私の足はまだ冬のようにカサカサだから。

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

<Play List>

  1. Until You Come Back to Me / Aretha Franklin ('74)

  2. Knockin' On Heaven's Door / Randy Crawford
  3. Till The World Falls / Chic
  4. White Man / Macy Gray
  5. The Duffler / Fantastic Negrito
  6. You're Still A Young Man / Tower of Power
  7. People Get Ready / Curtis Mayfield
  8. Hit Or Miss / Charge
  9. Jump / サザンオールスターズ
  10. It’s All Over Now / Rolling Stones

 

1曲ご紹介。

この曲のドラムを叩いているBernard Purdieの演奏は多くのミュージシャンのアルバムで聴くことが出来る。

走りながら、そういえばTotoJeff PorcaroSteely Danのアルバム「Aja」に入っている「Home at Last」でのグルーブ感満載の彼の演奏に憧れていたことを思い出した。

さっそく帰宅して「Aja」を数年ぶりに引っ張り出してきて聴きながら、なかなか柔らかくならない股関節のストレッチを「やわらかくなぁ~れ~」と祈りながら入念に行う。

 

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☆ ☆ ☆

 

 

Until You Come Back to Me / Aretha Franklin ('74)

Stevie Wonderの曲。どういうわけか彼のナンバーではチャートが上がらなかったがAretha FranklinのカバーでR&Bチャート1位。電話にも出ない彼をどうにかつなぎとめようと、どうかしたら間違った方向に走りそうにジタバタする彼女の、危うく悲しい気持ちをAretha は明るく歌っています。ユーミンならばパールのピアスを片方落として逆襲するか、ルージュの伝言を残して彼のママの元へと走るのですが……。このころのAretha Franklinはどこまでも伸びるチーズのように伸びやかできれいな声なので、余計に歌詞とはかけ離れて聞こえるのでしょう。彼女のアルバムは歌唱力と歌いっぷりの良さからくるのでしょうか、中森咲菜WOWOWでのライブ同様、どれも聴き通すには体力が必要です。アルバムを一つ聴き終えると5㎞を走り終えたかのような、満足感と疲労感があります。

プロデュースはBee Geesを瀕死の状態から「Saturday Night Fever」で復活させたArif Mardin。バックはDonny Hathaway (key)。名うてのサイドマンChuck Rainy (bs)。そして、ブラックミュージックのプラットフォームでTotoJeff Porcaroがあこがれたグルーブを叩き出すBernard Purdie (ds)。悪かろうはずがないのです。

 

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Cyndi Lauperもカバーしています。

www.youtube.com

 

 

Chuck RainyBernard Purdienの素晴らしい演奏が聴けます。

www.youtube.com

みんな暇だったからじゃない?

南を車に乗せると、最近は必ずBruno Marsのアルバム「Doo-Wops&Hoologans」「24K」をかける。

 

 

今日は車に乗り込んですぐに「Straight Up & Downを選曲した。

その後

「この曲YouTubeではあまり人気がないんだよね。オレはすごくいいと思うんだけど」とグチりながら「Count On Me」を流す。

 

 

「南はみんなと少しズレたところに興味を持つわね。いいことよ」

と誉めてみる。

 

 

 

人の話を聞いてなかったのか彼はそれには反応せず、次にかける「Perm」をパネル上で準備しながら

「歴史を学ぶ意味が分からない」

と突然話を変える。

 

 

南の話が変わることには充分慣れている。

いや、慣らされたので驚きもしない。

 

 

「昔の人の考えや、記憶、生きるための知恵やらなにやらを今に当てはめてみると、歴史から学ぶものがたくさんあるわよ」

とまずはありきたりに答えて、南の様子をみる。

 

 

 

「おとーさんも同じようなこと言ってたよ。でも学ぶものはないよ。昔から人類は同じことで間違っていて、同じことで争っているじゃん。それも騙し合い、裏切り合いは当たり前だし」

 

「愚かさと進歩のなさに気づいたでしょ。それは歴史から学んだということよ」

 

 

 

「でも、これに賭けるんだという凄味は昔の方があったような気がする」

「いろいろ学んでるじゃない。それはどうしてだと思うの?」

 

 

「みんな暇だったからじゃない?」

 

 

 

 

別に天才でなくてもいいけどね、やることやれれば

学年通信に

「天才は努力をしなくてもいいですが、あなたたちは天才ではないので日々努力を惜しまないように」

と書いてありました。

 

 

「あなたたちは天才ではない」

という言葉にキレた保護者が、それぞれに中学校に文句を言いに行ったそうです。

 

 

中間テストの学年順位が下から2番目だったヨシヒロ君が下から5番目にあがって、男子みんなで喜んでいたときのことでした。

ヨシヒロ君は「これはオレのことだ」と憤っていました。

 

 

 

南たちのクラスはこの騒動について昼休みに集まってグチを言い出します。

 

そのうちに天才に関する意見がまとまってきました。

 

クラスがいう天才とは

 

 

努力をしなくていいのが天才ではなくて

 

 

人一倍の何倍もの努力をして、

その痕跡を見せないのが天才なので、

天才ははじめから天才ではなくて、天才になるんだよ。

 

だから、天才になっても努力を惜しむと天才の座から転がり落ちます。

 

 

となるそうです。

 

 

 

私もそうだと思います。

異論はありません。

 

 

加えると、私は、

天才はうまれてきた役割を自覚していて、それにむけて努力をしている人

だと思います。

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

「はあ?」っと思ったら、みんなすぐに話し合うところが素敵なクラスです。

 

 

話し合っている気はないのでしょうが、グチに終わらず日本語の意味を自分たちの意見としてまとめていく様子は、なによりの勉強です。

 

 

自然体の自主性や主体性こそが本来の学びにつながり、しいては天才に近づいていくのでしょう。

 

 

「別に天才でなくてもいいけどね、やることやれれば」

と南はあっさりしています。