雨の音を聞きながら、江國香織の「泣く大人」を読みました。
その本の冒頭に「贅沢なかたまり」というエッセイがあります。
レーズンバターがいかにおいしいか、いかに好きかについて書いてあります。
一節を紹介すると
こんな幸福なバターは、たぶん私の体内で、骨を艶やかに輝かせる働きをするだろう、と、考えたりする。
いつか私が死んだら、きっと火葬場の人が骨を見るなり驚くだろう。丈夫でつやつやしているはずだから。
「贅沢なかただったんですね」火葬場の人は、そんなふうに言うかもしれない。
幸福な食べ物というのは、たぶん、そういうものなのだ。
パーフェクトな食レポではないですか。
食レポをするひとたちは、このような文章からヒントをもらって、独自の言い回しを考える努力をして欲しいものだと思います。
☆ ☆ ☆
誰もかれもが「めちゃくちゃおいしい!!」とコメントするのが食レポになってしまいました。
出てくる人でてくる人、ほんとうに誰もかれもが。
何を食べてもそう言います。
肉を食べれば「肉汁があふれる」、麺を食べれば「スープが麺に絡んで」、そして「めちゃくちゃおいしい」と言うのです。
何も伝わってきません。
というか、何を伝えたいのでしょう。
そんなの素人の私でもできます。
それが食レポと思っているのであれば、プロ失格です。
何も勉強しないままにテレビに出ているんだと残念に思います。
それならば、コメントしないほうがましです。
人と同じことを言うまいと、プライドをかけて必死に勉強しないのでしょうか。
タレントなら次も使ってもらいたいと思わないのでしょうか。
☆ ☆ ☆
明石家さんまは、落語(ハレ)の舞台を降りて、日常(ケ)を笑いにかえ続けて今の地位を築きました。
ただチャラチャラするのが得意でそれがおもしろかったわけではありません。
そんな思いつきで芸人は務まりません。
当然ですが、聞けば聞くほどに笑いに対する姿勢がしっかりできているのです。
明石家さんまは元々が落語家だったので、古典落語とチャップリンやキートンの喜劇映画を下敷きにして笑いの基礎をしっかり固め、それを「ひょうきん族」で広げていき存在感をだしていきました。
明石家さんまは、お笑い界で上り詰めた今でも、袴の畳み方だけはどんな弟子にも負けないとい自負があるそうです。
これが興味のわく話なので、雑誌「SWITCH」からのインタビューを紹介します。
噺家さんも袴は正月くらいしか穿かなかったんです。でもうちの師匠は日常の舞台も穿いてらっしゃったんで、それを毎回畳まなきゃいけないんです。正月は舞台で口上なんかがあるから、師匠連中全員紋付き袴で舞台にザーッと並ぶ。僕はてっきり袴の畳み方は他の師匠の弟子もみんな知ってると思っていたら、僕しかできなかったんです。そのときは他の師匠方々の分も全部僕が畳むんです。全員分やらなあかんから難儀でした。うちの師匠が帰っても結局僕は楽屋に残って全員分やりました。今でもその畳み方忘れてへん。”本結び”も誰もできなかった。僕は今でも正月の袴姿は本結びをやってるんですよ。誰も気付いていないんですけど。十字に対する正礼装の結びです。
☆ ☆ ☆
弟子の頃から意識がしっかりしています。
若手の頃から地に足がついているからこそ、正攻法の笑いが提供できるのでしょう。
その反面、笑いに関しては自分は才能があると思って疑わず、師匠にも臆せずモノを言っていたそうです。
さんまの師匠であった笑福亭松之助は心が広くそれを許します。
それでいて、自信過剰な自由奔放な弟子だったかといえばそうではなく、自分への自信と信頼を深めるためにも、松之助師匠の言うことはすべて素直に聞く耳を持っていましたし、それを行動に移しました。
さんまの弟子の頃の努力と真摯さは他を圧倒するほどに実を着けます。
ある程度の成功をおさめても、天狗になることはなく視聴者への敬意をもちつつ、かといって大衆に卑下して合わせるような芸になり下がることはありませんでした。
こんな笑いもあるよと惜しげもなく引き出しを披露しながら、見ているものをグイグイ引っ張ってきたのです。
「めちゃくちゃおいしい」の人たちは、自分自身と見ている人たちへの敬意を欠きながら、自分のことしか考えていないということに気づかないままに、コメントが下品になるのです。
自分のことしか考えていないのは、勉強していないからです。
普段から勉強癖がついていないので、何を勉強しなければならないかがわかっていません。だから、自分のことしか考えられないのかもしれません。
プロが勉強しないままに表舞台に立つのは見ているものに対して失礼です。
セリフを覚えず舞台に立つのと同じです。
それを甘やかしている周囲もどうかと思うのですが。
明石家さんまは、お笑いの伝統を大事にし、加えてアメリカの笑いを研究し、一見笑いに関係のないようなことでも誰にも負けない努力をしなければならないと自分に強いてきました。
その上で、笑いに対しての自分なりの解釈を築きあげ時代とともに提供されたら、それは無双になりますわね。
彼は今でももっともっと、おもしろくなろうとしているのです。
そのためには野球でいうキャッチボールをおろそかにしなかった、おろそかにしようとも思わない真摯さがあることに、私は心を動かされます。
明石家さんまのインタビューに、感心させられることや気づかされる話はあれど、「笑える話」はひとつもありませんでした。