i-class collection

ばーばと南 + Run&Music

子どもたちへのかかわり方 Part3 ~ 大きく変わる時代においては、親が子供よりも勉強をしなければならない

世界はAIを活かすための知能化技術の整備にやっきになるかたわらで、大人は無責任にも、0→1を差し出すことのできる人材が必要だと口をそろえる。

 

声高に叫ぶ者からは何も生まれてこいない理屈を知っている子どもたちからみれば

「そんなもの簡単に言うな」

と怒りたくなるだろう。

 

勉強ができたから創造者になれるものでもなく、ザッカーバークの真似をしたところで何も始まらず、かといって世俗からドロップ・アウトしたもののうちのだれかに期待するのは無責任すぎる。

 

AIは人類が培ってきた文化や価値へやすやすと侵入してきた。

 

夕飯時のリビングや茶の間で侵入者のニュースを横目で眺めながら

「これからはコンピュータと相互で生きていく時代になるねー」

とのんきに構えている次元のものではないことをまず理解しないといけない。

 

 

時代の大きなうねりに対して、その対応策を社会に任せるのではなく、各家庭単位で、その中でも個人単位で敏感になり興味を持って考えてほしい。

 

それを実行するには、世の中に転がっている課題がなんであるか、どの道をチョイスするのが自分たちの未来に有効なのかがわからなければステップを踏めない。

 

課題をみつめているうちに次々とネストが深まり、自分を見失うことは多々あるがそれもこれも、課題に向き合うための必要動作でもある。

 

そして、親も子もさらなる勉強が必要となる。

 

課題解決に向けてどんな勉強をすればいいのかと言う問題の前に、

そもそも親の世代は学校以外では勉強は必要ないと思っている節がある。

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

今の大人は広い枠組みで集団で目標に向かうことは得意だった。

命令は上意下達。

男は黙って言われたことはちゃんとやりますといった強さがあればよかった。

 

その時代はもう過ぎ去ろうとしている。

春の次は夏がくるのだ。

桜はいつまでも咲いていない。

 

 

にもかかわらず、親も子もスマホはゲームと個人情報の発信にしか使用できていない。

これでは個人の能力を拡張できないのは明白だ。

 

読書量も少ない。

 

 

子どもは親の背中を見て育つのであれば、子どもに勉強しなさいと言う前に親が子育てのための勉強をさぼっていることから改善しなければならない。

 

 

私の周囲を見ていると、いまだにいい大学に入り、いい会社に入るために早期教育に活路を見出し、常に序列の位置に一喜一憂するパターンに大きな変わりはないように思える。

ここで生き抜くには、最低でもコミュニケーション能力や規律に従う素直さ、そして知識が必要であった。

 

このようなスキルはもちろん今でもあるに越したことはないが、ファースト・チョイスではなくなってきた。

 

多様性の重要さも後押しをして、0→1を差し出すことができれば、その辺は目をつぶるよといった社会に変わってきたのである。

 

さて、親はここでどう出るのだろうか。

これまで通り序列を重視した教育を貫くのか、親子で勉強して他の突破口をみつけるのか、それとも子どもの「育つ」に任せるのか。

 

どれがよくてどれが悪いといったことではない。

その子が社会に提供できる価値を、もしくは提供できる価値を探せるような育て方をみつけていきたい。

 

 

親=「教育する側」の一方向的な常識からいったん離れて、自発的に「教育される側」に立ってみることが視野を広げることにつながるだろう。

 

自らが「育ち、育つ」ことをもって、子どもたちの育成につなげることが子育ての醍醐味の一つでもあることに責任を持ちながら楽しんでもらいたい。

 

 

起きている出来事や歴史や文化について、TVやコメンテータの意見や自分の感情に左右されず、データや知識に基づいて冷静に分析し、子どもたちが巣立っていく世界を予想しながら、子どもと一対一で議論することは子育てにおいて有用になるはずだ。

 

 

次はこれからの「教育」について考えてみたい。

 

 

 

 

                              つづく