・勉強勉強といわれて、塾だの家庭教師だのとあらゆる手段で有名大学を卒業したエリートが周囲とのコミュニケーションが取れない。
・自由奔放に育てられ、日常生活の会話や小さなもめ事までにおいて相手に勝つことだけを求められてきた子どもが、思春期に入ると家庭内暴力に走る。
・素直で可愛くて良い子ですねと周囲からいわれて育ったが、何をするにも人の意見を聞かないと自分で判断ができなくなりそれを強引に改善しようとした親に反発して登校拒否になった。
・スポーツエリートして小さな時から育てられ、常に上の世代と競争してきたことから変に大人びてしまい同年代に対するで礼儀と優しさに欠け、ことあるごとに人を見下すようになった。
私のまわりでも、このような問題は絶えることはない。
これらの問題について回を重ねて考えてみることにする。
彼ら彼女らは、問題行動を通じて大人に難問を突きつけている。
大人はその難問に向き合わずしてなぜこんな子に育ったのかと嘆く。
この時点では親としての経験値のなさと責任感の希薄さが
どうしても子どもに問題があると考えてしまうケースが多い。
そして、どのような対策を子供に施せば有効なのだろうかと親は四苦八苦する。
はたして「対策」「解決策」として策を練るという考えに着地することなのだろうか。
子どもの行動の底に隠れている「こころ」の問題まで下りて行かねばならないことは言うまでもない。
もっと大事なことは、親が自分の子育ての価値観について深く自省することだ。
問題はこちら側にあって、子どもたちの側ではない。
もちろん勉強もスポーツも大事である。
ただ、そこだけに押し込まれてしまった子どもたちはその価値観の少なさと窮屈さに辟易しているのだ。
勉強やスポーツを成長の中で活かすためには、それだけにかかわっていると、人としてのバランスを崩す。
利益は社会とお客さまへの貢献度のあとについてくるということを経営者が勘違いすると、従業員は利益を追求するだけのために働き、しいては不正の温床になることはさんざんニュースで報道されている。
子育ても仕組みは同じである。
だからといって利益をおざなりにしていいわけではない。
なんのために会社は存在しているのかを追求した結果が利益につながっていくメカニズムを把握していないと、足元をすくわれる。
勉強やスポーツを極めることは価値があることに間違いはない。
その価値を高めるにあたって、身に着けていかねばならないことは一つではない。
それがなんであるかを親子で考えて、親子で実践していくことへの理解が必要だろう。
つづく