数学は暗記ではない。
というと
「でも公式を暗記するでしょ」という人が必ずいる。
その人は三角形の面積は「底辺×高さ÷2」の公式さえ覚えていればいいのだから数学は暗記だという。
なぜ底辺×高さなのか
なぜ2で割るのか。
その理由まで理解してはじめて数学だ。
理解を伴うので暗記作業ではない。
公約数の個数の求め方でいうと、たとえば36の公約数を求める場合、
まず因数分解をして2の2乗×3の2乗とする。
これに公式を利用すると、
素数の指数に1足したものを各々かけると公約数の個数がでる。
(1+2)×(1+2)=9個
となる。
これさえ覚えておけば、足し算と掛け算で解ける。
どんな大きな数字がきても大丈夫である。
それはそうだけれど、それでは数学を味わったことにはならない。
表面をなぞっただけだ。
そこに「学」はいらないので算数レベルとよんでいのかもしれない。
公式は、簡単においしいコーヒーが飲めるデロンギのコーヒーメーカーではないのだ。
なぜ、因数分解をするのか。
なぜ、1を足すのか。
なぜ、掛け算なのか。
せっかく数学を学ぶのであればここまでわかりたい。
因数分解して、その指数をいじって、さらに掛け算をする。
その工程は料理と似ている。
やってることの意味が分からないと心をこめて料理は作れない。
素材を切るにもなぜこの形できるのか。
何故最初は弱火からなのか。
なぜ火を止めてからカレーのルウを入れるのか。
昆布としいたけのダシは何がどう違うのか。
全てに置いて意味がある。
公式の意味を無視してはならない。
学校では子どもたちの学習内容が、選択することから
問題を深く考えてそれを記述することへと変わってきたと聞いている。
これまでは公式と解き方さえ覚えれば点数はとれたが、
今やバカボンのパパみたいに「それでいいのだ」では済まされなくなった。
なぜ、どうしてそうなるのか、その理由がわからなければならない。
公式の暗記から定義の記述へとシフトしなければならない。
ようやく教育の場に「学」が戻ってきたのかなと思う。
授業で、円周率を100桁まで言えますと自慢しても今やなんの興味も持たれない。
円周率は無限に続く循環しない「無理数」であることを示しながら、その求め方の概要をさらっと説明したあとで、なんなら平方根ルート2が無理数であることを証明してみせたりすると、今年、日本ツアーを回るクイーンのブライアン・メイとロジャー・テーラーを唸らせ、バンドの新ボーカリストとなったアダム・ランバートのように新しい世界が広がっていくことになるだろう。
AIに使われるのではなく、AIを使いこなす側に立ち、「AI+人」を目指すのであれば、
定義を理解し論理的に記述できる国語力を数学に融合していくことが今後は必要となるのよと、南には口すっぱく言っているがわかっているのだろうか。
案の定、三角形の公式の説明はできるが、公約数になると全くお手あげだった。
手順別に定義を教えながら「ここまでわかると数学も楽しいでしょ」と、必死かつ無理やりかつしかたなしに納得させているところです。
きっと「いーじゃん。公式わかっていれば」と絶対思ってはいるでしょうが、問題の解き方を質問にきたら、私はあきらめませず公式+定義まで教え続ける決心でいます。
でも「めんどくさいな」と思われたらイヤだな。