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ばーばと南 + Run&Music

ゆゆしき、悩ましきかな英語教育

中学時代にどのような英語教育を施すとよいのだろうか、と頭を悩ましている家庭が多い。

我が家もお友だちの家庭もそれは同じで、悩みを大きくまとめると3つ。

 

 

<1つ目>

高校受験用の英語勉強について。

受験校にもよるのだろうけれど、文部省の英語に関する考え方が変わったことにより、どのようなスキルを獲得する必要があるのかが親もよくわかってない。

受験へのアプローチは学校と塾に任せていると何とかなるんじゃない?

という無責任かつ楽観的な思考でいいのだろうか、という悩み。

 

<2つ目>

高校受験の先には受験方法が変更になった大学受験を睨まなければならない。

英語は「話す」「聞く」「読む」「書く」の4つを重視し、試験の難易度もずいぶんあがったと聞く。

そんな日常英語を駆使するかのような結果を求められる試験に、高校からの準備で果たして間に合うのだろうか?。中学時代に先んじて動いておくことはないのだろうかという悩み。

 

<3つ目>

無事に社会に出たら出たで、求められる英語スキルは、雑談やメールのやり取りは当然で、さらにはプレゼン能力やビジネス文章ができたりと、受験英語とはまた別モノの難題が待っているのではないか。

そのスキル習得について、何をいつどのように勉強しておけばいいのだろうかという悩み。

日夜、受験英語を勉強したでしょ、あなたはその延長線上で勉強すれば十分ですよという声が、主流派として聞こえてこない。

少なくとも私の周辺に受験は成功した、日常の英語を駆使できるようになったという学生は皆無だ。

 

 

この3つの悩みを満足させるために、情報を取ろうにも様々な角度からというより、ほぼ全方向からくるお誘いの情報に立ちすくむばかりだ。

キノコだらけの山に入って、食用キノコと毒キノコを図鑑なしで選別するようなことだ。

 

星の出ていない砂漠で行き先を探すような絶望的な状況を解決すべく、

湖から金の斧をもって出てくる神さまはいるのだろうか。

もしその時はきっと、ぎ、ぎ、銀の斧も落としましたけどー!!と、うろたえて訴えるだろう。

 

 

☆☆☆☆☆

 

 

私の周りでは英語の勉強というと、受験用ビジネス用(日常生活英語も含む)の2つがあって、それぞれのアプローチは全く別の世界だという考え方が多くを占める。

あえて部分集合を探すなら、英語は単語を知らないと話ににならないよと豪語する高学歴の人たちの意見だ。

 

単語はがんばって覚えるとしても、この2つの習得にいつからどんな勉強を始めたらよいのだろうとの問いに解はないようにみえる。

もともと汎用な解はないのかもしれない。

 

 

加えて英語で話す必要性もない人が、どうやって日常の英語を上達するのか。

これが一番問題のような気がする。

 

でも、それを言ったら数学の平方根円周率も普段は必要ないし、鎌倉幕府が誕生した年が変わったところで、私たちには大きな影響はない。

 

国語・算数・理科・社会、これらの科目はその基礎を薄く広く勉強することによって、それぞれに興味や適応する科目を見つけて思考を広げ、自分でものを考える基礎を築くために必須であると考える。

 

音楽や美術などは、そこに加えて人間に深みをもたらすという意味で絶対に必要なものだ。

 

 

英語教育はそのような役目とは一線を画している。

 

グローバル化」に適応するための手段としてはじまった英語教育は、話す機会がそのうち訪れるかもしれないから予防的に知っておいた方がいいのでは、ぐらいの認識からスタートした。

ゴールが一つではないこの教育にアプローチするには、個別の確固たる意志が必要なのではと思う。

 

 

そのうちAIによる自動翻訳が解決してくれるよと言う人もいるが、それはそれで便利になるけれど、ヒト同士のコミュニケーションはそんなに合理的ではない。

AIにも限界がある。

 

なぜなら、人が発する言葉にはそのひとの感情を乗せることができるから。

言葉は音声だけではないのだ。

 

言葉の異なる男女が見つめ合っている目と目の間に翻訳機をかざして、AIが「アイシテル」というのと、言葉で言う「愛してる」はカタカナと漢字以上に女ごころへの伝わりかたがちがうのだ。

AIは人の心の機微までを凌駕できない。

特に女ごころの理解なんかは無理よムリ無理。

 

人類誕生後、長年かかって男性ができていないことを、ぽっと出での機械ができるわけがないでしょ。

 

かといって幼児期から英語に浸ればいいかというと、それはそれで母国語の喪失などの弊害があり、そう簡単な話ではない。

英語の習得は一朝一夕にはいかないのだ。

私たちのフツーの頭ではとてもむずかしいのだねと、半ばあきらめるしかないのだろうか。

 

となると、子どもたちはまずは高校や大学受験用の勉強に集中して、社会に出るタイミングで必要に迫られたときは、ビジネス英語を自分で勉強しなさいねと、突き放すしかないように思える。

心の中で道を示してあげることができない自分を、だってしょうがないじゃんと慰めながら。

 

 

とうぶんわが家での英語教育は、南のおとーさんが言ってるように

あせるな

あわてるな

うろたえるな

を合言葉にすすめてみるのでしょう。