親はどうしても自分の子どもにつらく当たりすぎるきらいがある。
あれもこれもと要求するきらいもある。
できれば早熟に育てようと無理をさせるきらいもある。
成長を人と比べて早ければよしとするきらいがある。
それもこれも子どもが元気で生きているからできる話で……。
脳に腫瘍ができた子どもの両親は
子どもの成長にがっつき過ぎていた自分をたいそう後悔した。
目を吊り上げて「もっともっと」と言う時間を
なぜおたがいが目じりを下げて笑い合う時間に費やすことができなかったのだろうか。
もっとたくさんの笑顔で日々を過ごすことができなかったのだろうか。
気づけば「もっと、もっと」を呪文のように繰り返す日々だったと泣いて悔やんだ。
人よりも少しでも勉強が進むことや
人よりもうまくピアノが弾けることや
人よりも速く走れることや
だれよりも先を行くことに価値を置いていたが
それは死と闘う病気の前にあっさりと崩れ落ちた。
生まれてからずっと人と比べることで、子どもの価値を序列でしかみてこなかったことで、もっともっとこの子の好きなことを、可能性を楽しく見出してあげることができなかったという後悔ばかりが先にたった。
子どもは、勉強もするし友だちとも遊びたいし、
親にしかられたりほめられたりもしたい。
どれかに片寄らないのが子どもであるのに、それを大人が偏らせる。
子育てはクイズを解いているのではない。
陰か陽か、白か黒か、うどんかラーメンか、こちらかあちらか、表か裏か、草食か肉食食か、空か海か、甘いか辛いか、正しいか正しくないか。
答えは一つではなく多様にあるので、〇か✖かで判断すると間違う。
教育は優しさと厳しさを使い分けろとも一般に言うが二元論では解決しない。
加減が難しいのだ。
優しさにも厳しさにも幅があり、その振れ幅のコントロールに親は悩まされる。
☆☆☆
子どもは全てにおいて中途半端で、未完成なものなので
無理やりに円を閉じようとすると、円はいびつになる。
ゆがんだ円をなじられて、ゆがんだ円なのにほめられて、
それに耐えられなくなった子供たちはカラダと心を守ろうとする。
そして必要に応じて正しくひきこもる。
円はゆがんでてもいいし、別に円でなくてもいい。
しかし、そこに序列や差はどうしても生まれて、
それは「場」において入れ替わることを大人は勉強しなければならないが、
それもまた本を読んで理解できるようなものではなく難しい。
エリートと呼ばれる大学教授が医者が子育てに苦労しているのだから、
頭の良し悪しで解決できることではない。
昭和の父親は子どもにそれを的確に伝える言葉を持たなかったので、ちゃぶ台をひっくり返していたのだ。
つづく