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ばーばと南 + Run&Music

for the chikdren < with the children ~ 大人の好奇心と探求心を、誰かが摘むから日本には博士がいなくなっているのでは?

親や大人は、子どもの好奇心や探求心を大事に育てなければならないと言う。

抑えつけてはならないとも。

 

 

学校から夏休み前に持って帰る、鉢植えのアサガオのように。

 

 

大人たちは親たちは、子どもの好奇心や探求心について深く深く考えて寄り添っているのだろうか。

できていない事の方が多くはないだろうか。

それも、子どもたちの言うおとなの都合で。

 

ステレオタイプなこの課題を受け入れるのは難しい。

 

「簡単ではない」と思っている人はどれだけいるだろうか。

メディアによっては10%を切ると言われている内閣支持率と比べてどうだろうか。

 

 

好奇心や探求心を失ったら、言うまでもなく生きてはいけない。

サーファーのボトムターンをサポートするのがフィンであるように。

三角形の面積が、底辺×高さ÷2であるように。

 

☆ ☆ ☆

 

日本国憲法第二十五条は、

(1)「すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」とある。

 

好奇心や探求心を失うと、健康で文化的な最低限度の生活を遂行することはできない。

 

それって、憲法にうたってある権利の放棄じゃん。

と、そこまで極端に振れなくても、これはとても重要な課題なので「うちでは、子どもの興味がある分野の本を与えています」みたいに簡単に済ませていいものではない。

 

 

子どもたちの、わが子の好奇心がどこを向いているのか、その好奇心を正しく広げる努力ができているのだろうかと、大人は常に自問自答する必要がある。

 

その際に自分の考え方が時代にあっていないと、散発で奔放で全方位に向いて飛び回る子どもの好奇心や探求心に適正についていくことはできない。

だから子どもたちに「勉強したの?」とたずねる前に、刻々と代わる時代を見据えながら、大人がより勉強をしていかないとならないのだ。

 

for the childrenではなく、with the children.

 

☆ ☆ ☆

 

導くには、大人だって旺盛な後期心と探求心が必要だ。

 

スターティングゲートに座るジャンパーみたいに、大人も覚悟が必要になる。

たくさん勉強をしなければならない。

そうでないと、とても子どもを支えることなどできるとは思えない。

 

狭い世界の話になるが、大人が本気になっているところに、「一番じゃないヤツはいらない」「効率が悪い」などと言って探求心の芽を摘むのであれば、日本には理数系を目指すものや博士がいなくなるのも当然だろう。

 

当然そこへ続く道は閉ざされ、子どもたちの好奇心は薄れる。

 

そこには順番や効率主義ではなく、多様性を求められるはずなのに。