南が5年生のときのお話。
塾と、ピアノと、陸上と、サッカーと、英会話を習っている南の友だちが、学校で吐き、塾でも吐き、サッカーの練習中に吐いて異常を訴えた。
全てにおいて人に負けてはならないことを親に課せられ、「将来はリーダーになりなさい」と言いくるめられていた彼は、とうとう学校を毎日早退するようになり、習い事はどれもまともにこなせなくなり、メンタルをやられ6キロやせて入院した。
母親の話によると、習い事を嫌がる兆候は1年前からあったらしい。それでも「社会に出たらもっとつらいことがあるから、頑張って乗り切れ」と両親は叱咤激励するのみで、彼の話を聞くことはなかったそうだ。
病室で自分を責めて泣く母親。
それでも現実に向き合おうとしない父親。
点滴につながれベッドに横たわるお友だちに「治ったらたくさん遊ぼうな」としか声のかけようがなかった南たち。
☆ ☆ ☆
子どもを育てる過程では、親が正気でいることに尽きる。
でもこれって結構難しいと思う。
そもそもどういう状態が正気であると言うのか。
そこに解はない。
前述した親も自分たちの考えが正しいと思ったからこそ、子どもにさまざまな習い事をさせていたのだ。
正気でいようとすることに常にチェックを入れる必要がある。
自分は正気だと思い込むことは危険だと思うだけでも親の暴走に抑止力は働く。
正気なのかどうかを客観視する要素はいくつかある。
親が子供に「過剰」になり「支配的」で「否定的」になっている場合だ。
そのような場合は往々にして、親子のコミュニケーションが成り立っていない。
当然子どもの強い思いは伝わらない。否定されるのを避けるために子どもたちは認められようとして、けなげに親の都合に合わせるようになる。
そのうちに「自由に考える」ことを放棄してしまうようになる。
子どもは自由な発言を封じられた代わりに、暴力的になったり、ひきこもったり、自傷行為を働いたり、いじめに走ったりと、ありとあらゆる様々なサインを出すようになる。
子どものサインには必ず理由がある。
自分の価値を信奉している親にはそのサインが見えない。
わが子の本来の姿を見失っていることにも気づかない。
子どもが出している苦しみのサインは、子どもの意志を親の良かれと思う価値観の中に押し込めてしまっていることからきているとは思いもしないのだ。
結果、子どもたちは意図しない方向へ連れ去られていき、さらに「混乱」していく。
親こそ子どもの何倍も勉強しなければ、子育てなんてできるわけがない。
親はいったいなんの勉強をすればいいいのだろう。
何を勉強し何を提供すれば順調に子育てができるのだろう。
どこにもないからといって自分の価値観を押し付けるのは無謀だし、自由にさせすぎるのも子育てを放棄しているとしかみなされない。
子育てのモノサシはどこに。
☆ ☆ ☆
そんな話を思い出していた矢先に、シンガポールに移住した南の友だちが「ママがシンガポールは生活のリズムが合わないらしい」という理由で今月帰国した。
ママが「これからは英語を身につけて、国際感覚を肌で感じなければならない」ことをさんざん周囲に説いて、中1と小学5年生の男の子2人を連れて意気揚々と出発したのは昨年の9月だった。
パパは日本に残るというので、グローバルな社会に向けて英語圏の中に身をおくことで国際的な感覚を身に着けさせようという狙いは本当だったらしい。
周囲はママのものすごいバイタリティと金銭力に驚いたものだった。
私もその決断力に感心しながらも、外国に身を置くことで国際的な感覚が身につくかどうかは実験的な要素が多いこと、他人事ながら何よりも家族の絆について心配したものだ。
南が言うには、子どもたちは嫌がって反対したけど「パパも、ママもあなたたちのために我慢するのだから」と言われて何も言えなくなったそうだ。
ママはこれに懲りずに、次はアメリカかメキシコに行く計画を立てていると聞いた。
どうしても外国で国際感覚を身に着けさせたいようだ。
私が、「どうしてメキシコなんだろう?」と不思議がっていると、
「世界中どこでもすぐに行こうとするのはすごいよね、子どもはたまらないけど」
テストの点数が何点であろうと、そのことで文句を言われることのない南にとっては、いろんな家族の形を見て感じるものがあるようだ。
「かわいそうだよね。自分で行きたいのならまだしも、自分のことくらい自分で考えて決めさせろよ、日本人の友だちはどうでもいいのかって思うよ」
子どもの時の過度な筋トレがからだのバランスに悪影響を及ぼすように、子育てについても、はっきりしない将来にむけて今をどう生きればいいのか、そのバランスこそが難しい。
その中でも子供たちの意志を伝える力と自分で考える力の育成は、生き残る上で絶対必要条件になると思う。
そのためには親もたくさん勉強し、子どもたちと対話を重ね、彼らを尊重することが求められる。
それは外国に行かなくても、たくさんの習い事をしなくても、社会性を育むに最適な装置である学校生活や家庭内の努力でいかようにもなると思われる。
自戒を込めて言うと、子育ては、子育てのなんたるかがわかっていない親が、子どもと共に育つことなんだという謙虚さが大事なような気がする。
決して大人が偉いわけでも、子どもがダメなわけでもないのだという前提のもとに。