ヒトに悟りました!!と言う瞬間はこない。
もし、悟ったと思ってもそんな気がしただけで、それは気のせい。
悟ったと言うと勝利者を想像しがちだが、優劣の中に悟りはない。
老化や病気の中に想いが生まれることもあるのだから。
悟りにはゴールもないので間違えてはならない。
考えや行動が徐々に人にやさしい方へ変化していく、その過程が悟りである。
☆ ☆ ☆
セミはちがう。
セミは何年も過ごした土の中で悟る。
そして、覚悟をもって地上に出てくる。
そこには後悔も未練もない。
やっぱりやめたといって地中に戻るセミはいないのだ。
デタッチメントを内包したセミたちは地上でやるべきことがはっきりしている。
1週間で子孫を残して死ぬ、という高い目的のためだけに、敵だらけの地上へ出てくる。
そこには恐怖や比較や評価や欲はない。
あるのは羽化するために木を目指す務めだけだ。
停滞は死を意味する。
生への誘いは、光と空。
土中の蓄積に未練などない。
潔い生に殉ずるセミの羽化は本当に美しい。
夏の夜の20時以降に孫たちと近くの公園にセミたちの羽化をよく見に行ったものだ。
土の中から出てこようとしているもの、
木を目指して歩いているもの、
木の上へ上へと登っていくもの、
羽化をはじめて背中が割れているもの、
逆さまになっって羽を伸ばそうとしているもの、
地上でひっくり返ってしまい動けなくなっているもの、
その様子は、月明かりに照らされた公園を幻想的で厳かな生に溢れた素晴らしい世界に変える。
ついこちらも力が入り「がんばれ」と声をかける。
☆ ☆ ☆
矛盾を抱えながら生きるヒトにそんな芸当は到底無理である。
蓄積に固執して発見を放棄しながら死にかけている。
悟ったと言った時点でそれは死だ。
生きることは死ぬことである。
死は述語である。
結果というゴールや「成る」の視点から自由になり、学びの過程を楽しめるようになると心の風通しもよくなり内的な美しさが磨かれはしないだろうか。
私に向けて……。
いや、ほぼ私のことなのだが。