私は知らない事が多い。
日本の歴史や文化、伝統についてすら聞きかじりばかりだ。
「禅」や「古事記」については外国から来たお友だちのほうが詳しい。
話を聞いていると、そんなことまでとドキッとさせられることが多い。
彼らというと、日本人ならば知ってて当然とばかりに、日ごろからの疑問を専門的かつ抽象的かつ無邪気に投げてくる。
その矢継ぎ早の質問は北朝鮮のミサイルに匹敵し、私の脳内には”文化アラート”が鳴り響く。
「昔はこんな書物があったらしいよ」程度で生きてきた私に避難する地下壕はない。
追い詰められてようやく動くのは私の習慣である。
日本のことをきちんと考えるようにしようと思った。
「日本の歴史だわ。歴史を見直す作業が私には必要なのよ!!」
いつものように、トマトを軽くスライスする感じで素早く決心をする。
やるべきことを決定する過程まではプロ級である。
しかし、トマトをスライスする包丁の刃はサビており、実行力に乏しい。
☆☆☆
では何から始めるか。奈良時代から?、平安?、戦国?、昭和?。
今は歴史についての書籍や資料やマンガはた~くさんある。
情報過多は、決められないことの第一条件。
イケメン10人にいい寄られたら迷うのと同じ。
ちょっとちがうかな?。いや、ちがわない。
本屋の棚に行くと、「応仁の乱」や「承久の乱」などの各トピックスに絞って深堀りする本もたくさんある。
頼るべきものがわからない。
深堀の程度がわからない。
鳥取砂丘でおはじきを探すようなものだ。
私の思考はおじいさんからもらった自動巻きの時計みたく、すぐに止まる。
時間とお金がたくさんあれば片っ端から本を買って読み漁ってでよいのかもしれない。
けれど私としては最小のコストで最高のパフォーマンスを得たいもので、それはそれは慎重になりさらに迷う。
それでも「若い時に勉強をしとけばよかったなあ」と後悔することはない。
「年齢と今の環境がこんな気持ちにさせるのよ」と、迷う自分を無理やり納得させる。
若い時の頭の中は平和真っ只中だったので、ファッションや男の子たちと遊びに出掛けることが大事で日本の事、いや世界の事すら顧みたこともなかった。
平和と水は降ってくるものだと楽観する圧倒的な非国民だった、と今さら懺悔する。
☆☆☆
来週は、南が中学校で初めての期末テストを迎える。
中間テストとは異なり、主要5教科に副教科(音楽、保健体育、技術)が加わる。
南は副教科の参加をさんざん呪いながら、リビングのいろんな場所で勉強をする。
隣に行って、ぞんざいに置いてあった歴史の教科書をのぞいてみた。
大発見。
歴史を総体的に理解するには、とてもよくできている。
そりゃあ、教科書だから当然だといえばそうなのだが。
なんだ、これでいいじゃん。
「まずは、全体を把握してそこから興味のあることに向かっていくために、その基礎として学校の勉強はあるのよ。歴史なんかはまさにそうね」
教科書を戻しながら、えらそうに南に講釈をたれる。
「そうだよ。学校の勉強は大人になってからの基礎みたいなもんだよ。学校を終えてからの勉強が大事なんだよ」
おとーさんからの受け売りを、当然という涼しい顔で答える孫。
外国人にも孫にも教えられることばかりで、誰にもえらそうにできなくなりました。
私の復活は中学校の歴史の教科書から始まる。