学校で命の授業を受けてきた南(5年生の時)の質問。
「ばーば、命ってなーんでしょ?」
「あなたはどう思うの?」
「死へのカウント・アップ装置だと思う」
「カウント・アップ?」
学校で習ったという割には先生の話をちゃんと聞いてなかったようだと勘繰る。
「カウント・ダウンだと死ぬ時が決まっていなければならないでしょ」
「ばーばは、決まっていると思うわよ」
「でも人の命はそうではなくて、おおよそ決まっているのだけれど、日ごろの行いによってその命がのびたりちぢんだりするんだよ。だからカウント・アップじゃなきゃダメだと思う」
「授業を心で聞いて、しっかり頭で考えていたのね」
とほめました。
「ばーばはその意見を取り入れることにします」
「すごい?」
「すごいわ。ばーばは今日から外面だけでも善人になるわ」
「なんかそれっていやらしくないか」
「いいーのよ。打算的に良い人でも、悪い人よりもいいでしょ」
「ばーばは、そういうのは似合わないからだめだよ」
「だって、長生きしたいもの」
「そうだけど、よく聞いて。その人の生まれてきた役割を全うすることが命だから、寿命が長ければいいってわけでもないんだよ。一生懸命生きて使命を全うすることがなにより大事なことだよ」
「そーなのね。ばーばはあなたとこうやってお話をすることも使命だと思うわ。だから、”お話道”を究めるために、何と言われようとも長生きしようと思うの」
「大丈夫。ばーばは強いし優しいから長生きするよ」
南の説明はたどたどしいものの、「いかにして存在するか」ではなく「何のために存在するか」が価値であるといった西田幾多郎の試みを私に思い出させてくれました。
その言葉は、NHKの「100分で名著」西田幾多郎「善の研究」にありました。
今一度、難解な故に一向に前に進まない西田幾多郎の「善の研究」を読んで、”長生きの種”を見つけることにします(どうしても長生きしたいらしい)。
命を懸けでもしないと、こんな難しいを読む気にはなりません。
このテキストが、もつれた紐にこんがらがっている私を助けてくれます。
完読した人のヒーローインタビューで、感想を一言とインタビューされたら、「こんな難解な文章を私たちがわかるように解説してくれる若松英輔教授に感謝します。その才能を見習いたいと思います」とお立ち台で絶対に言います。でもJAZZ同様に、「私には理解できる時が来るのかしら」カテゴリーから脱することはないと思います。
私は長らくその哲学的思想から「禅」の研究と思っていましたが「善」だったとは、うかつでした。荒井由実の「実」が「美」ではなかったことに気づいたときのことがよみがえりました。
今回のたわいのない会話は、小さいお坊さんに説教されているようで、くすぐったい気持ちになりました。