次男が熱はどう?と聞くと、突然ひーばーちゃんの声のトーンが落ちる。
「朝はとても上がったけど今はさがったわよ。今は37度1分」
「上がった時は?」
「37度3分」
「はい?。熱ないじゃん」
「調子は良くないの」
「さっき偉く元気だったじゃん」
「やっぱりよくないのよ。ご飯も食べれてない」
「先生からはよく食べて、よく寝て元気だって聞いたけど」
「先生はみんなを安心させるためにそう言ってるのよ」
「どーでもいいけど、家の中にはいらないものがたくさんあるから捨てておくよ」
「まー、そんなにあるかしら」
「調味料はほとんど賞味期限切れだし、タンスの中はいらないものしか入ってない」
「いつか使う時が来ると思ってね」
「梅酒はもう飲めないよ。そしておまるは使わないでしょ」
「おまるなんかないでしょ」
「あるから言ってる。どうでもいいけど、ごみ袋が200以上は必要だから」
「まあ、たいへんね。家の中が空っぽになるわよ」と他人ごと。
話にならないという顔で次男が電話を切る。まあまあいつものことなので、その元気に一同、ひと安心する。
☆ ☆ ☆
私たちの感覚ではいらないものを全部捨ててしまうとすっきりするのだけれど、ひ―ばーちゃんにとっては、タンスの中が宇宙なのかもしれない。消印を押してゴミ袋に詰め込むことが果たしていいのかどうか。「業」の否定は精神のバランスを崩しはしないかと私の中の天秤は揺れ悩む。
調味料の賞味期限は別として、タンスの中をどうしようがひ-ばーちゃんの勝手だからそのままでもいいかな、などと考えながら作業をしていると、長男や次男が幼少のころ遊んでいたビー玉やめんこがでてきたようだ。
「ありがたいね、もったいないね。こんなものまで取ってあるなんて。いつまでも子どもは子どもなんだねー」とひーばーちゃんを少し見直してきた。
なまぬるい風にすだれが動いたとき、再度ひーばーちゃんから次男へ電話がかかってきた。
「あー、そうそう血圧が少し低めだから、みんなで順番にお見舞いに来るように言っておいて。少しずつ分けてくれると元にもどるんだって」
「分けられるわけないでしょーが。それでいくつなの」
「70」
「脈拍じゃないのそれ」
「そうよ。脈拍っていったでしょ」
「言ってないし!!。血圧って言ったし。それじゃあ、問題ないじゃん」
「問題大ありなのよ。先生がイケメンだから、半年くらいいてもいいですかって聞いたらダメですっていわれてがっかりしてるの。だからいつまでも歩けないふりをして先生に車いすを押してもらおうと思って作戦をたてているのよ。よろしかったかしら」
「だー・かー・らー、ちゃんと病院からいわれたことを守って生活してね。時間制限であんまり見に行けないんだから」
「先生もジョンレノンとポテトサラダが好きだってよ。気が合いますねーってお話をしたのよ。先生とお話していると脈拍も血圧もドンっとあがるのよそれが。おかしくない?」
「おかしくない!!」
「それとね、吉本ばななのおとうさんの本を持ってきて」
「吉本隆明?」
「あなた持ってるでしょ。共同何とかって本」
「そんなの読みもしないのになにするの?」
「おいて置けば先生が興味持つかなって。あっ、私はカルテの記録に残るよりも、先生の記憶に残る患者さんとして……」
「電波がよくないから。切るね」ブチっ!!と次男が電話を切り「話がかみあわなねー」と言って眉間にしわをよせ首をひねる。
「また、心配させようと思って得意の弱った振りだ」
「色気は十分じゃん」
「どこにいっても全力で見栄を張るよねー」
「ひーばーちゃん、病院の中ではとっくに記憶に残ってるよ」
「次は入院を断る患者リストのダントツ1位じゃない」
「ばーばより長生きするかもよ」
などとひ孫たちは軽口をたたく。
彼らがいることで「笑い」が起こり、徒労におわりそうな延々と続く作業の「不条理」を救ってくれる。
「さて、そろそろ仕事に戻るか」といってみんなが立ち上がろうとする。
その中で一人
「心配して損をした。もう、絶対に全部捨ててやる!!」
と次男は真顔で軍手をグイっと引き上げながら決心を新たにするのであった。
おしまい。
驚異の回復力で2か月後にはひーばーちゃんが帰ってきた。
どれだけ払われても、一晩で糸を紡いで巣を作り直すクモのように、ひーばーちゃんのリカバリー力には目を見張るものがある。
ひと月後には、たくさんの調味料が賞味期限を間近に控えることになり、ビニール袋も紙袋も、水槽の中の夏の水草のように着実に増えている。加えて玄関の傘も、鍋もフライパンも再度ビニール袋で包まれていた。
とりあえず、ジョンレノンのCD「イマジン」は増えてなかったのでほっとする。
でも、2023年7月現在、ムダに3枚もあります。