神話は物事を説明するためではなく、「基礎づける」ために存在すると、昔のヨーロッパの誰かが言っていたと記憶している。
教育はまさにそれと同じくする。
過去において義務教育の勉強は、どの教科も高い点数を獲得した子どもが優秀とされた。
人と比較することは、その差が重要なので、ため込むことを覚える。
その場合、シェアの概念はなかなか育ちにくかった。
椅子は一つだからだ。
しかし、事態は一変し、個人の自由度と相互の尊重とともに椅子は増えた。
☆ ☆ ☆
これからの義務教育において、教え方の変化こそあれどもその構造が極端に変化することはないだろう。
教育を受ける側は時代に応じてそのスタンスを変えなければならない。
むやみやたらに「勉強しなさい」でどうにかなった時代は終わっている。
群れをつくる必要がなくなったからだ。
その代わりにきみは何ができるの?、とたずねられる。
どうやって社会を渡っていくの?、と問われる。
マークシートの選択方式ではなく文章で。
子どもたちは一人前になるための、勉強の活用方法をあらためて考え直した方がいい。
大人はこのような時代が大きく変わるときの経験値がないので、あまり期待せずに自分たちを信じて。
自分が羽ばたくためのトリガーとして各教科を利用し、何をもしくは何と何をきっかけにして羽ばたくのかを自分たちで見極める力が必要とされる。
もちろん全教科高得点を狙って、大手企業に潜り込むオールラウンダーな戦略もまだ活きている。
ただ、その方法だけではなくなったということだ。
かつ、その方法ではあらゆるリスクを回避するベストな解でなくなったということだ。
国語、数学、理科、社会、英語、音楽、美術、技術、体育、家庭の教科配分は、子どもたちがどれかの筒から弾のように飛び出していくきっかけになるには、よくできていると思う。
あとは、勉強とういう行動が自己を発展させる基礎になることを、子どもたちに自覚させるには何をしたらいいのか、について悩んだ方がいい。
子どもたちにはたくさんの椅子が用意してある。
ならば、旧態然とした画一的のままではいけないだろうことはわかっているだろう。
親:教師「育てる」 → 生徒「育つ」
この一方的関係から
親:教師:自分「育てる」 → 親:教師:生徒「育つ」
この関係性へシフトすることは重要案件の一つだと考える。
そして、特にスポーツの場面に増えてきたように
「育つことを待つ」
余裕のもちかたを、教える側には求められているようだ。
つづく