学校の勉強って何の役に立つのっていう人がよくいる。
うちの孫たちも判で押したように、ある時期にくると親や私にたずねてきたものだ。
南も5年生の時にその質問を投げてきた。
わが家ではいちいち説明はしない。
説明してわかることではないのだ。
「大人になったらわかるよ」と言えばいい。
大人になっても分からない人は、
正しく成長していないからだ。
ひとつだけ孫たちに話したことがある。
学校で勉強する内容は、どの時代も劇的には変わらないけれど、
社会の変化によってその役割は変化するということ。
そう、
高度成長期はいい成績をとり、いい会社に入れば一生食べていくことができた。
しかし、未来獲得スキルの一択であった受験勉強は、ここにきて万能ではなくなったこ
とを、これから受験を経験する南には事あるごとに話している。
振り分けられた高校や大学で無難に過ごして、どこかの会社へなんとか潜り込んでいれ
ば年金生活につながる「人生のあがり」への道はもうない。
そんな時代はすでに終わっているので、
「学力」を、漠然といい会社へ入るためのスキルとしてとらえると大きく間違う。
「平家物語」の冒頭の句。
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらは
す」
今の世の中も例にもれず、まさにこの通り無常。
「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消
えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」
と冒頭で述べている。
しかし、現代のゆく川は鎌倉時代ほどゆっくり流れてはいない。
加えて、具体的な未来を大人が示すことができずにいる。
未来を示せないので、
これならば一生涯食うに困らないという必殺技を社会はもたない。
学校の勉強は何の役に立つの?
という問いはすでに時代遅れとなっている。
学校の勉強だけでなく、そこでの生活も含めた上で、学校での学びをどう自分の将来に役立てるのかは、それぞれの判断に任せられる世界になったのだ。
主導権は文科省ではなく、こちら側にある。
未来に向けて学校が変わるのを待つのでは遅い。
親や子どもたちがそれぞれの考え方を変えなければならない。
問いに答えるための情報の取扱いに長けたものが優位にたった時代から、広い知識を駆
使して、未来への視点や見通しや眺望を情報に加工して提供するスキルを求められる時
代になっている。
そのためには、学校で得た情報をさらに深く掘り下げて知識に変換し、理解して分析し
て課題を設定して解釈して表現する力を育むこと。
課題を自分の考えとして確立することだ。
未来が霧の中にある今は、特に義務教育では学校という社会の中で
「教えてもらう力」を学ぶ必要がある。
勉強をしなければならない時期には、その時にしかできないことがある。
学びかたがわからない義務教育のときにはこそ、「教えてもらう力」を養っておかないと、常識が激しく変わっていく社会ではついていけなくなる。
学校生活ではいろんな先生や、いろんな友達と接しながら勉強や生活を通していろんなことを学ぶ。
その中には当然、正しい情報や間違った情報が混ざっている。
しかし、とにかく学んだことを実行していく。
そのうちに、何が正しいかどうか、何が自分にあっているかどうかがわかってくる。
その「教えてもらう力」を真摯に学ぶ過程で、素直さという成長に欠かせない大事なスキルが身についてくる。
それが義務教育後に、あなたの生活力に大きく貢献していくのだ。
その後には、習ったことを実際の生活に当てはめてみる作業が重要になる。
情報を道具に昇華するのだ。
ルートやタンジェントで世の中をどう扱えるのかを経験するのだ。
歴史を点ではなく物語として扱いなおすことで、人は昔から何も変わってないことを深
く学ぶだろうし、年号と事象だけを頭に覚えさせるよりも、その生々しさから学ぶもの
は計り知れないほど大きい。
音楽や美術、スポーツからの経験は人としてのおもしろみや深みを後押しするものとなる。
それらは子どもたちの想像力のスイッチを押す。
私たちを含め、自我から離れられない大人より、若い世代の実力に任せた方がこの先の地球はよっぽどよくなると思う。
未来を示せないのであれば、せめて若い世代の邪魔になるモノの整理くらいは行いたい
ものだ。