わが子は「とりあえず日常会話ができれば」と願い、
まだ言葉もまともにしゃべれない幼少期から、
アメリカ的な考えかたと英語を習わせていた夫婦がたずねてきて、
小学校低学年になってから乱暴な言葉がなおらないと言う。
彼の子どもは英語では全て「YOU」なので、誰に対しても「おまえ」でいいと言うらしい。
英語には尊敬語や謙譲語はないので、先生にも同等の態度で接していいと思っており、さらに自己主張ばかりを繰り返すので、周囲からは可愛がられないようだ。
言葉だけでなく
文化までなんの脈絡もなくアメリカ偏重としてしまった結果だ。
友人の言葉を必ず「いやそれはちがう」と否定から会話が始まるので、誰も相手にしないようになる。
素直さがないので先生ですら嫌がるようになったそうだ。
日本で暮らすのに日本社会に受け入れられないのでは話にならない。
全てが英語のせいではないかもしれないが、親が日本語と日本文化を軽視したバツであることは確かだ。
☆ ☆ ☆
まずはっきりしていることから片付ける。
会話の内容が多岐に広がる日常会話を「とりあえず」などとナメてはいけない。
外国語を習得するにあたって日常会話ができれば十分だ。
とりあえずなんて言ってると痛い目にあう。
外国語習得の早道は専門的な世界に入ることだ。
これは別の機会に書くとして、問題なのは、幼少期の片寄った外国文化と外国語教育のリスクだ。
子どもが疎外されていることはわかった。
原因もおおよそわかった。
事実は公開された。
では、この両親はどうしたいのかという意見がない。
この時点ではグチの域を出ない。
事実と意見とグチは全く異なるものだ。
もし今のままだと、親子ともども反省してますどうしましょう
と言われても私からは処方箋は出せない。
この問題に対してどうありたいというゴールが見えない限り解決はできない。
この後の行先を丸投げされても困る。
私はアメリカ偏重の幻想や誤解が盲目的な親の教育につながっていることを改めることからはじめなければ何を言っても無駄だと、両親に確認してみる。
でもそれは、私の意見でありいい悪いではないことも伝えた。
ブルース・スプリングスティーンが歌うように
アメリカにも強烈な光と深い闇がある。
それを重々わかった上で、常に世界で1番でないと嫌なアメリカをなぞることが、
わが子をグローバル化の波にのせる早道だとするのならば、
それはそれでその両親の決定事項なので私がとやかく言う筋合いはない。
アメリカの民主主義が崩壊していても。
富の格差が大きくても。
言論の自由を規制されていても。
それでいいのであれば。
今、周囲から何を言われようともその姿勢を貫き通せばいい。
ただ、日本社会に受け入れられないことに
親も子どもも堪えられればの話だけれど。
それが嫌なのならアメリカに移住してしまえばいい。
☆ ☆ ☆
人に相談をするときは、事実と意見を混同せずに
必ず自分の意見や要望、仮のゴールをきちんと持って臨むこと。
グチに終わらせないためにも。
それだけの準備があれば、ゴールへ向かう方法論のアドバイスぐらいだったらできるかもしれない。
どっちへ向かったらいいですかなどを求められるとそれは無理だ。
私はあなたではないし、ゴールのない道案内はできない。
どんな問題でもどう解決したいかは自分で決めてほしい。
富士山に登りたいと決心するのはあなただ。
どんなルートがありますかと聞くのは相談だ。
私は山に登りたいですか?
私は山に登ったほうがいいですか?
などと問うのは問いではない。
甘えだ。