i-class collection

ばーばと南 + Run&Music

子どもたちへのかかわり方 Part7 ~ 校内に悪役をつくらないためにも古典文学を読む

南のクラスにはちょっとした係を決める際に、いつもきまって手を上げる男子と女子が一人ずついるそうです。

 

音楽会の指揮者を募ったときにも、さっとその2人が手を上げて生徒間では一件落着となったのですが、先生からクレームがつきました。

 

 

「いつもこの2人にやらせてばかりでみんなはどうも思わないのか」

という理由です。

 

「先生はそんなクラスだとは思わなかった。悲しいことだ。みんなの自信は中学に入って1年間で育まれなかったのか」

と大げさに突き放されたみたいです。

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

納得がいかないのは手を挙げないその他大勢です。

昼休みにクラスの真ん中に集まり、不満をそれぞれが口にだします。

 

 

まず、やらせてないし、押しつけているわけでもない。

自分たちからやりたがってるんでしょ。

内申点が上がるから」と言って本人がやってるんだから別にそれでよくないか。

私たちってそんなに悪者なの?

「そんなクラスだと思わなかった」って、どんなクラスなの?。見てなかったの?

そんなクラスの担任はだれよ。

動機が不純でもやるって言うんだからそれでよくない?

それで回っているのだから別にいいじゃん。

体育のサッカーのゴールキーパーはオレたちが順番にやってるのは知らないくせに。

あいつ、先生の前ではいい格好するからね。

 

なんでもかんでもハイハイ手を挙げるのは、逆に自信の無さの裏返しでしょ。

女子の学級委員の意見は鋭く冷酷に核心を突き周囲を感心させます。

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

南の学年の先生たちは、対立構造をわざわざ作りたがるようです。

タバコ事件のときも吸った側も悪いけど、吸ってない方も注意しないのが悪いといったように。

 

今回も結果的に

  ①手を挙げる子 vs 手を挙げない子。

  ②先生 vs 手を 挙げない子。

の2つの対立構造ができました。

 

 

ハリウッド映画ではないので、学校内に悪役をつくる必要はありません。

 

 

校内で起こること全てに事象において、相対的な採点基準をもって生徒に接する方法論には無理があります。

 

社会は白黒であることの方が稀です。

 

 

先生たちの行動は学校内にほぼ限られ、まだ一人前になっていない子どもたちと何年も過ごすので、社会にもまれる機会に恵まれません。

 

学校や公務員の外の世界は、思っている以上に複雑で広く優位差を求めるあまりに混沌とし、あっという間に手の平を返す社会です。

 

そこでは今何が起こっているのかについて先生たちは個別に勉強をしていかないと、どうしてもきれいごとで片付けようとする片寄った考えになりがちです。

 

 

でもそのような社会を理解しろといっても当事者ではないことから、相当に難しいことかと思います。

先生は生徒たちに常に当事者意識をもてと言いますが……。

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

最後に学力は学年でもトップクラスの木村君がこういいました。

 

「思ったことを口に出していいわけではない。先生のそう思うということが、いつでも本当にそうであるとは限らないのだから」

 

 

みんなはさすが木村君と感心するなかで、彼の話はさらに続きます。

 

「そこが、いつもぼくたちが考えろと言われているところだ。それには言葉の価値が大事なので本を読まなければならない。言葉の価値に接するには古典文学が必要なので、えーと……………」

 

 

 

木村君がいつもの演説モードに入ったので、南たちがそこは止めたそうです。

 

 

 

 

「さあ、次の役決めのときが楽しみね」と私が南の意見を求めると、

「同じだよ。やらせとくよ。オレは内申点なんていらないし。何点もらうか知らないけど少しの点数のために自分を殺すことはしない」

少し冷めた大人の返事が返ってきます。

 

 

「でも、また怒られるかもしれないね」

「ほおっておくさ。おとーさんもそれいいんじゃないって」

 

 

 

中学1年生。

日々のいろんな出来事に翻弄されながら、自分なりに出口を見つけようとしています。

お友だちと一緒に意見をぶつけ合っているところが素晴らしいと思います。

 

 

こういう人と人がぶつかりあうリアルな体験の積み重ねは、人の心を強くし、優しくします。

これはデジタルだけの教育では到底できないことです。

 

 

でも木村君の言う通り、本当に古典文学は読んだ方がいいかもよ。