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ばーばと南 + Run&Music

小学校は時代のニーズに応じて変わらなければならないか。

南の小学校の校長先生とお話をする機会がありました。

 

校長先生が肩を落としておっしゃるには、小学校の勉強もAIが全盛になる世の中を見据えて、時代に応じて変わらなければならないけれども、どう変わったらよいのか、なかなか差異的な最適解が見つからないといった悩みがあるとのことです。

 

 

それは、私に聞かれても「わからん」としかいようがありません。

 

 

 

はたして小学校は時代に応じて変わらなければならないのでしょうか。

 

小学校では勉強の基礎を学びます。

地球では基礎ができていないと、その先の成長はありません。

多様な変化についていくには、基礎固めができていないと何もできません。

料理でもスポーツでも、お茶でも歌舞伎でも。

 

 

小学校の勉強は、野球でいうキャッチボールです。

サッカーでいうインサイドキックやトラップの練習と同じです。

スポーツ全般でいうところの柔軟性を指します。

 

 話はそれるけれども、柔軟性ってとても大事なんですよね。

 筋トレよりも大事なのに、それを見逃している指導者のなんと多い事か。

 このお話はまた別の機会に。

 

話を戻して

いくらバッティングがフライ革命になろうが、ピッチャーの投げる球が落ちるボール全盛になろうとも、

サッカーのワールドカップで、4バックが3バックになろうが、スペインのポゼッションが封じられようとも、

教えるべきそれぞれの基礎は変わらなくてもいいと思います。

 

 

いや、変わってはならないのではなりません。

 

 

 

 

今の子どもはタブレットを持たされて、それを使って勉強しています。

それは、使用していた文房具が表向き変わっただけです。

中身はこれまで同様、日本が誇る国語、数学、理科、社会、美術、音楽です。

 

 

沢山教科があるのは、そのうちのどれかに興味を持ってそれを深めていったり、教科を超えて連動し、それがさらに理解を深めていくことにつなげるためだと思います。

 

 

私はそれらの教科について、教える内容は変わらなくていいと思います。

知識の習得が楽しいと思わせることができれば、

それで小学校は上がりでいいのではないでしょうか、とお話ししました。

 

 

塾に行って中学受験をし、キャリアを作ってよい高校へ入るトレンドは、成長経済においての成功パターンでした。

 

その費用対効果は、経済が停滞しAIに雇用を持っていかれる現在では、下がる一方といわれています。

 

学校はそこをまず理解して、そんな中でも子どもが勉強を少なくとも嫌いにならない、あわよくば勉強が好きになる環境を、整えてあげることが重要です。

 

 

スポーツに励む小学生の中には、大人に勝ちを求められすぎて中学校に入ると疲れはてて、せっかくのキャリアを捨ててしまう子どもたちがいるそうです。

 

 

勉強も同様だと思います。

小学校の時に疲れさせず、

知識の習得に興味を導き、

何か一つでも教科の中で得意とするものを得た子どもは、

それが、受験に必要のない科目でも問題ないどころか、素晴らしいことだと思います。

 

私は、むしろその方が今後は自身の身を助け、社会をも助けることになりはしないかと案じています。

 

受験だけに目を向けていると、受験勉強がその才能を覆い隠してしまいます。

 

 

先生方の現場からの離脱が増えています。

小学校では、子どもたちも、先生方もオールラウンダーである必要はないと思います。

 

プロ野球の世界でも、守備は下手だけどDHで生きる人もいれば、

代打で、守備固めで、先発はダメだけど中継ぎで、

長くは投げるスタミナはないけれど抑えなら、代走ならばだれにも負けないと、

生きていく道はたくさんあります。

それぞれがアドバンテージに気づいてそれを好きになり、基礎を丁寧に磨くのです。

 

大谷のような二刀流は世界でもまれなのに、

そんな異次元の世界を追いかけて、挫折して疲れるなんてナンセンスです。

 

 

小学生がいったん「学び」を覚えると、それを世の中でどう活用していくのかなんて、大人には全くわかりません。

小学生の中身はブラックボックスです。

制御不能です。

当然です。

子どもたちを制御できると思ったら、原子力同様に間違います。

 

才能は、桜のように決まった時期になると満開になるわけではありません。

いつどのように、何が原因で誰のどんな才能がいつ開花するなどは、

気象庁はもちろん文部省も親すらも把握できていません。

 

 

小手先の技術が通用しないこの先、社会の変化への対応には基礎体力をつけておくしかありません。

 

というか、今の解はそこにしかないのです。

 

ですから、小学校の教育はどちらに転ぶかわからない経済のニーズに合わせる必要はありません。

無理なゴール設定も必要ないかもしれません。

 

 

子どもたちの未知なるポテンシャルを信じて、それを未来に発揮できるように各教科を通じて導いてあげるのが、小学校や親の役割ではないでしょうか。

 

 

小学校はお相撲のように伝統にのっとり、何も変わらなくていいのです。

大相撲は古くからの政(まつり)ごととしての仕組みを、どんな時代にもなびかないからこそ、女性を土俵に上げずに維持してきました。

 

 

伝統ある小学校教育もそれでいいのではないでしょうか。

小学校の勉強内容は変わってはいけないものとして、

いや、変えてはいけないものとして、世界遺産登録をするといいのではないでしょうか。

 

 

 

それはだめかな。

だめよね。